ABOUT WORKS

 私の描くタイル画のテーマは「人物」から「植物」、「庭」と、はじめてタイル画に出会ってから20年のあいだに、ゆっくりと変化してきました。

 

 長い歴史に支えられたタイル画に携わっていると、今という時間の中でタイルを手に持ち絵を描いている時、それぞれの生きる時代と場所が違うだけで、なにかによって絵を描かされているのに過ぎないのではないかと思うことがあります。作品の描き方や多少モチーフが変わっても人のやることにそれほどたいした変わりはない。わたしが絵を描いているさなかに遠い時代の誰か、同じ作業をしていた人のことを、ふと思い描くことがあります。

 

 植物を描くと、それを容れる器や鉢にも興味がわき、トルコのイズニックや、青花の文様を画の中に取り入れることはしばしばあります。

 鉢の起こりというのも、おそらく人間が火をおこしたり言葉をしゃべり始めたり、家族や仲間の葬式をするようになった文明の曙のころであったろうと思います。そして鉢に花や幼木を植えるというのも、生命の再生や創造行為の表れで、同時にその花や苗木が枯れることがあれば、鉢は棺の意味も担っていたのかもしれません。

 

 このような土器や鉢の文様を考えたり描いたりすると、自分のアイデンティティー「生まれたところの影響」がより表れやすいのではないかと思うことがあります。縄文土器のように見える鉢を描いたのは、自分の中から自然に出てきたものでした(Living in the pot という作品-2007年)。自分の中に風土的なものが眠っていて、ときどき目覚めるのではないでしょうか。 

  

 なぜタイル画に惹かれるのかというと、ひとつには他人に習う事のなかった技法だったからです。それと同時にわたしも普遍的な「青と白」のとりこになったからです。

 

 洋の東西の文化の交流・融合という点から見れば、ポルトガルでは東洋の文化を自分たちの芸術様式の中に取り入れ、また日本では西洋の文化を自分たちの文化様式の中に取り入れた、ということになると思います。ですので、この当時のそれぞれのタイル画や浮世絵の中から感じ取れるのはその時代の日本や西洋であって、そこで懐かしさというのが洋の反対側から時代を超えてたどり着くということなのだと思います。浮世絵では渓齋英泉画の藍刷り絵「墨田提桜盛」(1830)が青と白のたどり着いた果てのような気がしますので特に挙げたいと思いす。

 

 またなぜタイル画に飽きないかというのはまだわかりませんが、おそらく墨と紙の関係に似て、描くというよりは顔料がタイルに吸い込まれてゆくところが魅力なのかもしれません。私は油絵科で美大に入学しましたが、すぐに魅力が失せ木版画で学校を卒業しました。描き重ねていくという技法の根本的な有り方が自分の持つものと相容れないのかもしれません。また紙の軽さに対比して今はタイルの重さに魅力を感じるのかもしれません。現代においてことさら重さ軽さという大事な感覚が失われつつあると思います。

 

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2018年8月

 

 

白須 純
 

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